蕨の歴史

開拓
 奥東京湾の海面下にあった蕨は、やがて地上にその姿を現わし、湿地帯を形成していました。その上に荒川のはん濫で運ばれた土砂がたい積して、海抜4メートルから6メートルの高地がつくられました。
 この高地に人間が定住し、開発が進められたのは、平安時代末期のころです。言い伝えには、金子右馬之助家忠の一族が、平安末期の保元の乱(1156)や平治の乱(1159)を避けて蕨本村(法華田(ほっけだ)、現在の錦町5丁目付近)に落ちのびてきて、蕨開発の祖となったと伝えています。鎌倉時代に入ると、土豪を中心にある程度の集落ができていたようです。これは、市内に現存する鎌倉時代の板碑からも、うかがい知ることができます。


戦国時代
 長禄2年(1456)古河公方に対抗するため、渋川義鏡(よしかね)が関東探題に任命され、蕨城主になりました。それから間もなく応仁の乱(1467)が起こり戦国時代に突入、全国各地に戦火が広がっていきました。
 北条氏の武蔵進出で、その支配下に入った蕨城は、大永6年(1526)に扇谷(上杉氏)朝興軍に攻められ、ついに落城しました。
 永禄7年(1564)岩槻太田氏は世継ぎ問題をきつかけに北条氏の勢力下になり、渋川氏も再び北条氏に属するようになりました。このように蕨周辺は群雄割拠し、戦国大名の勢力範囲はめまぐるしく変化していました。このころ蕨では六斎市が開かれ、物資の交流が行われていて、現在、錦町6丁目の「一六橋」の名称が当時の名残をとどめています。永禄10年(1567)蕨城主渋川義基(よしもと)は、北条方の援軍として上総(千葉県の一部)三船山に出陣戦死しました。戦いに敗れた渋川氏の家臣たちは、その後、蕨城周辺に帰農し、沼沢地帯の干拓を行い塚越新田を開きました。


天正から慶長
 天正18年(1590)徳川家康が関東に入国し、翌19年には三学院に寺領20石を寄進しています。江戸幕府は、封建体制確立のため街道の整備に着手し、各地に宿駅を設置しましたが、蕨宿は慶長年間(1596〜1614)主に下戸田村元蕨で人馬継ぎ立てに従事していた問屋伝馬役人などを移住して創設され、中山道の宿駅として発展をとげました。

江戸から明治維新 
 江戸時代の蕨宿は、浦和、大宮、上尾の各宿をはるかにしのぐ繁盛ぶりだったようです。蕨宿の町並みは南北に約10町(約1.1キロメートル)続き、この町裏に用水を堀りめぐらして、宿の防備や防火に備えました。夜間、町並みの上下に設けた木戸を締め、用水堀に渡したはね橋を上げると、外部からの侵入を完全に防ぐことができました。
 名主、問屋を兼ねた岡田家は、寛永12年(1635)の参勤交代以降、本陣役も務め諸大名、幕府役人などの公的休泊施設になりました。文久元年(1862)の皇女和宮降嫁の際には休憩所となり、大政奉還後の明治元年と同3年の明治天皇大宮氷川神社行幸時にも小休所になりましたが、明治政府の本陣廃止で200数10年続いたその役目を終わりました。現在は、本陣跡として残っています。


明治から現代
 明治3年(1870)石川直中は蕨宿に郷学校を開き、近代学校教育の基礎を築きました。明治22年(1889)には蕨宿と塚越村が合併して蕨町が誕生しました。同26年に念願の蕨駅が開設され、町民あげての祝賀会が催されました。大正4年(1915)には「ワラビ」を図案化した紋章が画家の間宮孝太郎によって考案されました。
 第二次大戦後、町村合併が促進され、蕨町、戸田町、美笹村の三町村合併がまとまりかけましたが実現しませんでした。昭和34年、蕨町単独で市制を施行して今日に至っています。