アイコン 歴史  *在フランクフルト日本国総領事館HP「パートナー」の項目から抜粋

 リンデンは、フランクフルトから北へ車で1時間ほど走ったところにあるまちです。
1977年にグローセン・リンデンとライゲステルンが統合され、現在のリンデンのまちができました。したがって、まちの中心は二つあり、市役所などの公の建物は古いまちの境界に沿って建てられています。
 統合後三期にわたりずっと市長勤めて来たレンツ市長は、若い頃にアフリカや中近東で地域開発の専門家として働いた経験があり、その経験を市の発展に生かしてきました。そのため、現在人口12000人ほどのまちは、ドイツの市町村の中でも3番目の健全財政を誇っています。このような健全財政を背景に、最近農地保有税が全廃されました。
 リンデンは、高速道路や鉄道も良く発達しています。ただ、こういった交通網がまちの中を縦貫しているため、もともと別々に発達して来た町の二つの地域の一体性保持に苦労する、というのが市長の述懐でした。
 リンデンを訪問すると、二つの古い町の核、その外側に広がる田園地帯と気持ちのよい住宅地、そして良く発達した商工業地帯を見ることができます。大規模卸売店メトロがリンデンにオープンしたことによって、市民の雇用口が増えたばかりでなく、一般市民の買物の便もぐっと増しました。市の中には沢山の雇用口がありますが、フランクフルト(電車で45分ほど)やギーセン(北隣の大学都市。日本企業の進出もある。)への交通が良いことから、市外に仕事に出る市民も多くいます。

蕨市との交流
 リンデンと蕨の交流は、札幌オリンピックの後の日独のスポーツ交流に遡ります。日独のスポーツ交流に参加した蕨とリンデンの代表が話し合い、1978年から両市の間の交流プログラムが始まりました。
 それから20余年が過ぎましたが、両市の交流はますます盛んです。レンツ市長の部屋にも蕨から贈られたミニチュアの刀や富士山の額が飾られています。蕨から贈られた豪華な着物は、近代的で簡素な市役所の中で一際目を引きます。まちには「ワラビ通り」があり、遠い蕨のまちが身近に感じられます。
 リンデン蕨独日協会は、交流の担い手で、永年会長を務めてこられたヘードリヒさんは、日本政府から勲章を贈られています。現在会長を務めているヴァイスさんも、お父さんが独日協会の創設メンバーで、今や若い世代が日本との交流の最前線で活躍するようになってきました。

リンデン市の歴史
 最後にリンデンのまちの歴史についてお話しましょう。フランクフルトはローマ時代にローマの領土だったのですが、リンデン以北はゲルマン人の住む地域でした。対ゲルマン防衛のために作られたローマの長城リーメスの最北端が、今でも市の南東を走っています。
 現在のリンデンの町は、もともとグローセン・リンデンとライゲステルンという二つの町からできていました。文書に残っている最古の記述は、グローセン・リンデンが790年、ライゲステルンが805年です。町に残っている一番古い建物は、グローセン・リンデンの牧師の館で1452年と言いますから、日本で言えば銀閣寺よりもちょっと古い時代のものです。
 ドイツの町の例に漏れず、グローセン・リンデンもライゲステルンも中世を通じてさまざまの領主の支配下に置かれます。宗教改革では、どちらもいち早く新教に改宗しました。しかし、続く30年戦争やペストによって住民の3分の1が犠牲となりました。フランス革命に引き続くナポレオン軍の遠征では、ライゲステルンはまちの半分以上を消失する大損害を蒙りました。
 19世紀の半ばからは、近くで発見されたマンガン鉱(1976年に閉山)のおかげで、まちが賑わうようになって来ます。今世紀のニ度の世界大戦でも二つのまちは大きな被害はありませんでしたが、第二次大戦後になるとチェコのズデーテンやシレジアの故郷を失ったドイツ人たちが沢山引き上げて来て、グローセン・リンデンやライゲステルンにも住むようになりました

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